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さとりは簡単です
「さとり」は「悟」とも「覚」とも書く。「悟る」というと、自分の世界観が変わるような、眼が開いたような、何かも見渡す力を得たような感覚を持たれる方が多いようで、中には超能力が得られると思われたのか「和尚さん、私の心、読めますか?」と聞かれたこともある。 「さとり」とは「なるほど」という合点のことであって、「わかった」ということに他ならない。日常、どこにでもあることで、数学の問題が解けても「さとった」のであり、英語も同様である。 いまさら教科書の問題を解くつもりはないが、最近の私は安易な「さとり」を楽しんでいる。 先週の事。テレビで歯科医師が「日本人は朝夕に二度、歯磨きをする人が多い」と話され、朝、@起きてすぐ、A朝食の後、どちらがいいのか、と続けられた。私の習慣はAだが、これは×とのこと。まず夜間に口中で繁殖した雑菌を除くことが肝要で、口中を清掃しないで食事をとるのは「ばい菌を食べているようなもの」とだめ押された。 脱線ですが、道元禅師の時代にも日本人には歯磨きの習慣はありました。柳で楊枝(ようじ)を作り長さは四指から三十センチくらい。歯の裏から舌、歯茎まで磨くように、と仏教の真髄といわれる御著「正法眼蔵」に示されている。これも「さとりは身近」のようで面白い。
朝、本堂で読経する。「摩訶般若波羅蜜多心経」と声を出して木魚を打とうとすると、誰かが木魚を動かしたのか、体を伸ばさないと撥(バイ=たたく棒)が打点に届かない。これは苦しく、木魚の下の布団を懸命に手前に引くのだが重くて動かない。苦し紛れに自分から木魚に近寄ると簡単に打てる。思わず「ニヤリ」。これもさとり。 三回忌法事の席で「この仏様の五十回忌をする人は・・・・ここにいるお孫さんかな。お寺は僕が一番大事」と話す。間接的に「みんな死ぬぞ!」と言ったのだが、「四十七年後? 私、百二十歳だね。いないよ。僕、頼むよ」と言ってニコニコする。急に注目された僕もうなずいてニコニコ。 悟りは簡単。「わかった」ということ。わかれば、「死ぬ」といわれてもうれしくなってしまう。 注意しなければならないのは、お釈迦さまは「悟ったら、やってごらん」と言われていること。停滞してては「さとり」にならない。 私は朝食の前に歯を磨くことにした。木魚の近くに陣取ることにした。少し大袈裟だが「今、しておくことからすること」と思うようになった。 「コロナウイルス対策」も身近な消毒・マスク着用などを心がけましょう。 2020.8 盆
日時 2020年11月06日 12:30 |
分類項目:
和尚のひとりごと |
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